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創価学会の罪

『自民党が存在する限り、この国が良くなることはない』というのは私の信念です。
なぜなら、自民党は日本及び日本国民のために政治を行っている訳ではないから。
より直裁に言えば、アメリカ政府のために政治を行っているのです。
消費増税を行いながら、一方で『思いやり予算』の増額を決めたことは象徴的な事実です。

その自民党を延命させているのが公明党です。
無能でありながら、政権に就きたいがために自民党にべったりくっついている、
あの公明党です。
公明党の無能さは軽減税率をめぐる一連のドタバタを見ても明らかでしょう。
以前からあれだけ熱心に軽減税率導入を謳いながら、
明確な方針と具体案を持っていなかった。
軽減税率がそんな状態なら、街中のポスターで見かけるその他のお題目は、
『推して知るべし』ですね。
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その公明党の支持母体は言わずと知れた創価学会です。
創価学会は日蓮宗系の新興宗教団体です。
一部には大石寺から破門されている現在の状態は、
宗教団体であるかすら微妙だとの声もありますが、それはここでは置きましょう。
日蓮は国の行く末を憂い、熱心に活動した人です。
その系譜にある創価学会は公明党を支持し続けることで国を危うくしているのです。
この国をダメにしようとしているのです。
これは大きな罪です。

もしも創価学会の人たちに両親というものがあるのなら、
即刻、公明党の支持を止めましょう。


悪人礼賛

『残念ながら我々は善人からよりも悪人から学ぶことが多い』と言ったのは、
バートランド・ラッセルだったか。
世間一般では『悪人』と認知され敬遠される人たちの中にも、
学ぶべき事・称賛されるべき事はあるのだ。
今回はこの人、小沢一郎氏を取り上げよう。
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正確にはこの人、悪人ではない。
ただ、なぜかこの人、世間から嫌われ、評判が悪い。
ん~、確かに『悪人顔』かも・・・。
言うまでもなく小沢氏は政治家だ。
政治家を評価する基準は、『器量・力量』と『思想の方向』だ。

力量に関しては申し分ない。
『剛腕』といわれる突破力もある。
多分、この人頭のいい人なんだろう。
頭の良い人は時として常人の思考を超える。
常人が1,2,3、・・・とステップを踏んでようやく結論にたどり着くのに対し、
頭の良い人は数ステップ飛ばして一足飛びに結論に達する。
彼は常人の頭の回転の悪さに我慢できず、独断専行の傾向にあるのだろう。

一方、思考についてはこの人、ブレていない。
『国民の生活が第一』と、少なくとも民主党の党首時代から言い続けている。
そして今、我々庶民にとって最も重要な課題が『生活』なんだ。
政治家を単なる好悪の感情だけで判断するのではなく、
こういうところをちゃんと見て評価すべきなんだ。
あの『チンピラの言いがかり』のような疑惑で彼がこのままフェードアウトしてしまうのは、
何とも残念で仕方ない。
今の日本に、優秀な政治家を腐らせておく余裕などないのだ。

ロマンチスト・徳川家康

徳川家康は歴史上の人物の中で、知名度の高い人物です。
しかし、その人物像には謎に包まれた部分があります。
『家康影武者説』などはその最たる例ですね。
今回はあまり語られない、家康の側面に触れてみたいと思います。

戦国の武将たちが合戦に際し、
文字を大書した旗を掲げて望んでいたことはよく知られています。
武田信玄の『風林火山』、上杉謙信の『毘』などは有名です。
家康は若い頃より、
『厭離穢土 欣求浄土』(おんりえど ごんぐじょうど)の旗を掲げていました。
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彼は後に天下人となり、江戸に幕府を開きます。

ところで徳川幕府の施政の中心である江戸城(現在の皇居)は、
元々太田道灌が海岸線の岩場に城を築いたことが始まりです。
以来何度か改修され、あるいは増築されますが、場所自体は変わっていません。
しかし現在の皇居はかなり内陸部にあります。
これはなぜか?
江戸時代の初期に大規模な埋め立てをした結果なのです。
もちろん重機など無い時代ですから、
その労力たるや想像を絶するものだったでしょう。
にもかかわらず、単に埋め立てをするだけでなく、
区画整理をして上水を引き、下水を設けます。
埋立地には井戸を掘っても真水は出ませんから、
上水を木で作ったパイプを連ねて井戸の位置まで引いてきます。
これは江戸で暮らす庶民が生活をしやすいように、
との配慮以外の何物でもありません。
こうして、当時世界で最も大きく、衛生的な街、江戸が出来上がったのです。

家康が自らの欲望でのみ天下を欲したのなら、
こんな労力を費やす必要はなかったでしょう。
何が彼をこのような大事業に駆り立てたのでしょう?
恐らくそれは、若い頃からの『厭離穢土 欣求浄土』の思いからだと思うのです。
自分が切り開いた新しい時代の中心地・江戸は、
穢土であってはならず、浄土でなくてはならない。
そういう思いが彼を突き動かしたのだと思うのです。
だとしたら家康は、とんでもないロマンチストだったということになります。

晩年、駿府で暮らし、駿府を国際都市にしようと奮闘した家康を思うと、
なんだか少し、親近感がわきます。

ほっちゃれ

鮭です。
鮭は川で生まれ、海で育ち、再び川に帰ってきます。
メスは産卵のため、オスは受精のため、川に戻ります。
エサも食べず、ただひたすら上流を目指します。
産卵場所にたどり着いた鮭たちは、トーテン・タンツ(死の踊り)を踊ります。
そして、役目を果たし、力を使い果たした彼らは、死んでしまいます。
彼らの死骸はボロボロになり、あるいはほかの魚に食べられ、あるいは朽ち果てます。
これを『ほっちゃれ』といいます。
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朽ち果てていく死骸は様々な栄養素に分解され、
他の魚を育て、水草を育て、川を育てます。
やがて卵がかえり、稚魚たちはほっちゃれのおかげで豊かになった川で育ちます。
鮭は子供たちを、ほっちゃれとなる事で育てているのです。
決して、産みっぱなしではないのです。

僕らは後の世代に何を残せるか?
何を残すのか?
僕は社会を育てるほっちゃれになりたい。


『寛容の美徳』

我が国に深く根付いている大乗仏教は、極めて寛容な宗教です。
さまざまな仏教説話がそれを示しています。
阿修羅王、鬼子母神、これらの神は最初は敵対する関係でした。
それが後に仏に帰依することになります。
そして孔雀明王―。

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孔雀明王は堕天使でした。
しかしそれを悔い、贖罪の涙が七つの瓶を満たした時、許されて天界に帰ります。
以後、孔雀明王は仏敵を誅する職務を全うします。
孔雀明王は他の明王たちと違い、穏やかな顔をしています。
(他の明王たちは一様に憤怒の表情です。)
その為孔雀明王は『実は(明王より上の位の)菩薩なのでは?』とも言われています。

他方、キリスト教にも堕天使はいます。
ルシファーがそれです。
大天使でありながら悪に堕ち、大魔王サタンになったと言われます。

この二人の神、元々はインドの一地方の神だったようです。
それが仏教にとりいれられたのが、孔雀明王。
西へ行ってキリスト教に取り入れられたのがルシファーだと思われます。
この二人、なぜにこの様に違った結果になったのでしょう?
それが二つの宗教の持つ『寛容さ』の違いだと思うのです。

大乗仏教は、現在、ほとんど日本にしか残っていません。
『僕らの持っている神々が極めて寛容な神で良かった』と、
昨今欧州で激しくなっているテロのニュ-スを見る度に思うのです。

はじめに

prometheです。
拙ブログ、『バサラでいこう!』ではお世話になっています。
ちょっとした気まぐれで、サブブログを始めてみようと思い立ちました。
『バサラ~』では自分なりに、それなりに深く考えた事をテーマに書くので、
文章量も増え、更新も滞りがちになってしまいます。
こちらのブログでは日常の生活の中でふと思ったこと、心に引っかかっていること、
時事ネタ、小ネタ等を簡潔に書いていこうと思います。


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初回は、この言葉。
『自分を知るには、一生かかる』
ギリシャの古いことわざだそうです。

例えば恋人がいる。
2~3年付き合って相手の何もかもわかった気になっている。
とんでもない間違いです。
この言葉はその事を教えてくれます。
自分の事すらしっかりと分からないのに、他人の何もかもが分かる筈はありません。
もっと謙虚になって、相手を見つめること。
相手を知り続けること。
それが大事なのです。
そうすれば10年たっても、20年たってもドキドキしていられる。
恋を、し続けていられる。
お互いがそうしていれば、倦怠感なんてある訳ないんです。
そう思います。

日本には同じような意味を持つ言葉に、『棺を覆うて後に定まる』という言葉があります。
でも、『棺~』には一種の諦観やアイロニーが感じられるのに対して、
『自分~』という言葉には希望が感じられる。
それでこの言葉の方が好きです。
皆さんも隣にいる人、もう一度見つめ直してみませんか?


こんな感じで肩の力を抜いてやっていきたいと思います。
なるべくマメに。
『バサラ~』共々、よろしくお願いします。

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