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ロマンチスト・徳川家康

徳川家康は歴史上の人物の中で、知名度の高い人物です。
しかし、その人物像には謎に包まれた部分があります。
『家康影武者説』などはその最たる例ですね。
今回はあまり語られない、家康の側面に触れてみたいと思います。

戦国の武将たちが合戦に際し、
文字を大書した旗を掲げて望んでいたことはよく知られています。
武田信玄の『風林火山』、上杉謙信の『毘』などは有名です。
家康は若い頃より、
『厭離穢土 欣求浄土』(おんりえど ごんぐじょうど)の旗を掲げていました。
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彼は後に天下人となり、江戸に幕府を開きます。

ところで徳川幕府の施政の中心である江戸城(現在の皇居)は、
元々太田道灌が海岸線の岩場に城を築いたことが始まりです。
以来何度か改修され、あるいは増築されますが、場所自体は変わっていません。
しかし現在の皇居はかなり内陸部にあります。
これはなぜか?
江戸時代の初期に大規模な埋め立てをした結果なのです。
もちろん重機など無い時代ですから、
その労力たるや想像を絶するものだったでしょう。
にもかかわらず、単に埋め立てをするだけでなく、
区画整理をして上水を引き、下水を設けます。
埋立地には井戸を掘っても真水は出ませんから、
上水を木で作ったパイプを連ねて井戸の位置まで引いてきます。
これは江戸で暮らす庶民が生活をしやすいように、
との配慮以外の何物でもありません。
こうして、当時世界で最も大きく、衛生的な街、江戸が出来上がったのです。

家康が自らの欲望でのみ天下を欲したのなら、
こんな労力を費やす必要はなかったでしょう。
何が彼をこのような大事業に駆り立てたのでしょう?
恐らくそれは、若い頃からの『厭離穢土 欣求浄土』の思いからだと思うのです。
自分が切り開いた新しい時代の中心地・江戸は、
穢土であってはならず、浄土でなくてはならない。
そういう思いが彼を突き動かしたのだと思うのです。
だとしたら家康は、とんでもないロマンチストだったということになります。

晩年、駿府で暮らし、駿府を国際都市にしようと奮闘した家康を思うと、
なんだか少し、親近感がわきます。

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